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死語同然となっていたヘブライ語 [語学]

「今日からわかる聖書ヘブライ語」谷内意咲 ミルトス 2017年 によると、(P.41)

◯紀元七十年にユダヤの国が滅亡した

◯それ以降1900年間、ヘブライ語はユダヤ教の礼拝や文学として使われるのみで、話し言葉としては死語同然となっていた

◯19世紀後半ユダヤ人のイスラエル帰還が増え、建国の機運が高まっていた

◯ヘブライ語こそ建国後のイスラエルの国語でなければならないと立ち上がった人がいた

◯それがのちに「ヘブライ語の父」と呼ばれる、ロシア出身のエリエゼル・ベン・イェフダー

◯1882年妻とともにイスラエルに帰還、家庭ではヘブライ語しか話さないと宣言

◯現代の会話に用いるには語彙が不足しているため、ユダヤ文献、姉妹言語などから掘り起こし、なければつくった

◯「ヘブライ語辞典」を編纂、生前に5巻まで出版され、死後37年かかって全17巻の辞典は完成した

◯死語同然だったヘブライ語は現在イスラエルのどこに行っても話されている

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ヘブライ語の復活は随分と力技な感じである。

「ヘブライ語をしゃべってない人がなんでイスラエルを建国するのか」と言われることを避けるためにヘブライ語で話すことを広めたのかも。


「ヒトラーにユダヤ人殲滅を依頼したパレスチナのイスラム教宗教指導者」
https://matome.naver.jp/odai/2139125162574953501
1926年に出版されたヒトラーの著書、『我が闘争』の中には、すでに以下のような記述があり、将来誕生することになるイスラエル建国を強く批判していた。

「 ユダヤ人の新たな民族意識はパレスチナでのユダヤ人国家建国によって満足されるのだと他の世界の人々に信じさせようとシオニストたちが努力するとき、お人好しな非ユダヤ人を騙すべく、それに関してユダヤ人はもう一つの手段を採る。彼らには、パレスチナにユダヤ人国家をそこに住むことができるように建国しようなどという意図は微塵もない。彼らの真の狙いは、国際的な詐欺とペテンのための中央組織を設立することにある。
主権国家として、これは他のいかなる国家にも支配されえない。したがってそれは、正体を見破られた詐欺師の避難場所と同時に、その他の詐欺師の訓練のための高等学校として役立ちうるのだ。」
『わが闘争』A.ヒトラー


「ヒトラーの名言が世の中の真実を語っていて恐ろしい」
https://matome.naver.jp/odai/2141074143820574801
「大衆は小さな嘘より、大きな嘘の犠牲になりやすい」
「弱者に従って行くよりも、強者に引っ張って行ってもらいたい…大衆とはそのように怠惰で無責任な存在である」
「今日では金が唯一の人生の尺度になったかのようだ。しかし再び人が気高き神に頭を垂れる時が来るだろう」


フォルクスワーゲンを作ったのはヒトラーということを知った。
一家に一台、国民の車が必要だと考え、一般人が入手でき、故障しにくい車を、ポルシェ博士に命じて造らせたという。

「ポルシェ博士とヒトラーの「VW計画」」
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc260.html#02
●ポルシェ博士の息子フェリーは、自伝の中でヒトラーについて次のような印象を述べている。
「ヒトラーは一旦、興味を持ち始めると、基本的にもまた、細部についても、彼の理解力は驚嘆に値するほど速かった。
・・・
金ピカのにわか将官の側近連中とは違ってヒトラーは決して傲慢な態度をとらなかった。側近の多くはホウロウ材質で表面を幾分似せていたようだが、頭脳の中身はまったく異質のもののようだった。

ヒトラーは、決して、愚問を発したり、的外れの質問をしない。まったく逆だ。勉強には苦労を厭(いと)わないのだった。

だから、一生懸命になって父のフォルクスワーゲンを理解しようと努力していた。技術的に細部にわたって多種多様な質問をしてくるのだった。その質問は全て的を射ていた。ヒトラーは、ある箇所を変更させるつもりだったらしいが、それにもかかわらずメジャー・チェンジを提案しなかった。確かに質問の内容から判断して、技術的に細部にわたって相当研究しているように見えた。

さらに驚くべき点は、彼の記憶力の良さだった。ヒトラーの記憶力は抜群だった。彼の記憶力の良さには父も驚いてしまったほどだ。」
・・・
ヒトラーは世界一の(少なくともヨーロッパ一の)大工場を作れと号令した。
・・・
工場の敷地はニーダーザクセン州の「ミッテルラント運河」近くの広大な荒地(ファラースレーベン)が選出され、生産台数80~100万台を目標とする大工場の設計が始まった。
・・・
最初の計画によれば、生産工場よりも、そこに一大工業都市をつくることに重点がおかれ、野心的な若い建築家ペーター・コラーが主任設計士として任命された。

彼が設計した工業都市は、300m道路から、大アパート群、住宅街、ショッピング・センター、娯楽センター、公園、スタジアムと素晴らしい規模をもつものだった。
・・・
ヒトラーは「国民車」に「KdF-Wagen」(KdFワーゲン)という名称を与え、
「ドイツ国民のための全く新しい小型乗用車は、ポルシェ博士ら優れた 技術者の英知と努力とによってここに完成した」と宣言した。
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